全特 2016年10月秋号
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港湾の重要性に目覚めた横須賀 前島密が最初に横須賀(浦賀)を訪れたのは、十九歳(一九五三年)のとき、ペリー率いる巨大な黒船を見るためでした。実際にその眼が捉えた黒船は、若き前島に衝撃を与え、世界の広さを意識させたに違いなく、医学を志していた前島が、海運や砲術に関心を持ち始め、英語や数学にまで勉学の幅を広げていきます。 やがて二十二歳のとき、観*光丸の運用長・竹内卯吉郎に機関学を学ぶこととなり、横須賀沖で一泊する観光丸の試運転に乗船する機会を得ました。その夜、雪の降る甲板で、竹内から湾から広がる海の持つ重要性を説かれたことは「是等の諸事は今に於ても感謝して措(お)かざる所となす」と、『自叙伝』に記されています。 また、『鴻**爪痕』の逸事録に、前島密翁の娘婿である松島氏が寄せた書簡の中に次のようなくだりがあります。 「日本の地理殊に港湾につきては非常の綿密なる知識を持たれ候は全く実地踏査の結果にて、書物の知識に非ざりし事は常に驚歎致候」 前島が、竹内から受けた薫陶を、浄楽寺の入口には、前島密の没後95年を記念し、前島の胸像を載せた青銅製ポストが設置されている(2016年)。また、お墓の傍らにリーフレットボックスが建っている。 “密か”に生きた前島密翁の偉大な業績がよくわかるパンフレット(前島密業績絵画)が置かれている。前島翁の眠る浄楽寺は、1189年、鎌倉幕府初代侍所別当・和田義盛が建立したという由緒ある古刹。浄楽寺の本尊である阿弥陀如来像、観音菩薩像、勢至菩薩像、不動明王像、毘沙門天像は仏師・運慶によるもの。年に2回(3月3日、10月19日)公開される。賀市日本文明の一大恩人前島密翁を称える会の﨑庄司会長*観光丸=一八五五年六月、オランダから幕府に送られた蒸気船。幕府は七月に海軍伝習所を長崎に設立した。伝習生のリーダーに任じられたのは、勝麟太郎(海舟)。**『鴻爪痕(こうそうこん)』=前島密の述懐をまとめた書。前島密翁が、自分の人生を「鴻が雪泥に残した爪痕のようなもの」と称したところからこの名がある。04

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