全特 2017年4月春号
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7891011121314ロシア人が掘ったとされる井戸。湾のすぐそばに掘られており、時化の後は、ゴミが散乱している。船を繋留する桟橋の跡に残る岩。ロシア軍艦泊留地跡からさほど遠くないところにある砲台跡。三点濾過式井戸や、兵舎跡も残る。対馬は古代より“国境の町”として知られ、複雑な入り江は格好の港(津)を提供し、国際交流・貿易の拠点となった。まさしく対馬は“津島”であった。大船越の瀬戸。江戸時代に東西の海を繋ぐ利便のために開いたと「堀切由来の碑」が建ち、今に伝わる。厳原(旧名:府中)には、江戸時代、湊に朝鮮からの漂流民を保護する施設、漂民屋があった。左に延びた石垣は、現厳原港の一角に残る府中湊の中矢来跡。への帰路、前島に熱心に英語を教授しました。 長崎へ戻ると、何の家に寄寓するほどに親交を結び、亡くなるまでその縁は続いたほどです。英語にも一層磨きがかかり、何が全国から英語を学ぼうと集まった若者たちのために開いた私塾の塾長に推挙されます。 指導にはフルベッキが当たり、瞬く間に塾生は三〇〇人を超えたと言います。前島は自らの経験から、苦学生も安心して勉学できる合宿所「培社」を開設しますが、運営は経済的に非常に厳しく、前島は私物を売り払って米代に当てたりしていました。郵便制度と前島の出会い この長崎滞在中、以前入手していた『漢*4訳 聯れん邦ぽう志し略りゃく』に記載されている郵便制度について、ウィリアムズに尋ねています。ウィリアムズは、喩えて「通信の国家に於けるは、恰も血液の人身に於ける様な者である。……通信は則ち血液で、血管は駅逓である……」と説明してくれました。しかも、切手の貼られた書状を見せ〝切手〞の持つ役割までも教示してくれたのです。(『帝*5国郵便創業事務余談』) これが、現在にまで連綿と続く郵便制度と前島密との出会いでした。8791210131411*4 清国で発刊された、アメリカ合衆国の風土などの地理から産業、貿易、政治、風俗など多岐にわたって記述している書籍。*5 博文館の主人大橋佐平の依頼で郵便創業当時の逸話を雑誌『太陽』に掲載のため書き記したものの一部。(背景図)停泊中の朝鮮通信使の使船と、防波堤(矢来)が描かれた絵図。(文化8(1811)年の朝鮮通信使を記録した草場佩川『津島日記』より)05

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