ZENTOKU 2018年夏号
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*1 明治17年は、葉書1銭。明治18年の大卒初任給は、月額10円(週刊朝日編「値段史年表 明治大正昭和」1988による)。秋田市を流れる旭川の上流に位置する藤倉水源地は、めがね橋(群馬県・安中市)とともに、平成五(一九九三)年、第一号近代化遺産として指定されました。 日本初の「水道」は、室町時代後期(戦国時代)相模の戦国大名北条氏康によって小田原城城下町に小田原早川上水が建設されたのが最古の記録とされ、江戸時代には、江戸、大坂などの大都市では広く普及していました。しかし、明治維新後人口増加や生活様式の変化により、水質汚染が広がり、伝染病が流行するようになりました。明治政府は、西洋式近代的水道の必要性を痛感し、主要都市を中心に敷設が開始されていきます。 秋田市でも明治になると、民間人による水道敷設計画が持ち上がるものの、資金面から実現には至らず、明治十七(一八八四)年には地元の富豪佐伯孫三郎・貞治親子が三千円の私財を投じました*1が、財政難に陥り着工を断念。明治十九(一八八六)年、秋田県内ではコレラが大流行し、五〇〇〇人近くにのぼる患者数を出し、そのうち約二八〇〇人もの人が亡くなりました。明治三十三(一九〇〇)年、市会で水道布設事業着手の方針が決定されたものの、またもや資金不足のため行き詰まり、着工されたのは明治三十六(一九〇三)年のこと。明治四十(一九〇七)年、市内一部地域への通水が開始されましたが、その後起こった旭川の洪水被害などを乗り越え、明治四十四(一九一一)年、ようやく全ての施設が完成しました。以来、昭和四十八(一九七三)年、水源を雄物川へ一本化するまで、秋田市民に清涼な飲料水や生活用水を供給し続けました。 藤倉水源地から、旭川を下ると秋田の市街地です。江戸時代は、久保田城(現在の千秋公園)下に武家屋敷、旭川の対岸に北前船で栄えた商人の街並が広がっていました。久保田城は、慶長七(一六〇二)年から明治二(一八六九)年の版籍奉還まで、秋田藩二十万石佐竹氏の居城でした。初代藩主佐竹義宣が、自然の台地を利用して築城したもので、石垣や天守閣を持たない平山城が特徴でした。 明治十三(一八八〇)年の大火で城内の堤上架橋工事風景(明治44年) 写真提供:秋田市上下水道局秋田県出身の漢学者・狩かのう野良りょう知ちが千秋公園(当時は「千秋園」)と命名した。秋田の「秋」に長久の意の「千」を冠し、長い繁栄を祈ったものとされている。久保田城は、遺構は土塁と堀、門と唯一大火を逃れた御物頭御番所だけが現存しており、8つあった御お隅すみ櫓やぐらの1つが展望室を加えて復原されている。03

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