ZENTOKU 2019年冬号
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 かつて「四大工業地帯」と呼ばれた北九州市門司区は、高度成長時代、炭鉱の閉山、新幹線の博多駅開通の影響もあり、玄関口としての役割は小さなものとなっていきます。しかし、日本各地で文化財保護の動きが起こるまで、再開発の波をかぶることもなかったため、貴重な近代化遺産が多数残存しており、「門司港レトロ」と謳い、観光都市として生まれ変わることとなりました。 関門海峡の対岸、現在では関門大橋で繋がっている下関は、元治元(一八六四)年、講和使節に高杉晋作*2が任命され、英・仏・米・蘭の四国連合艦隊との講和が成立し、国際港として開港しました。門司港と同様、明治三十四(一九〇一)年英国領事館が開設されるなど、数多くの近代化遺産が存在します。福岡県と山口県は協力してイベント*3を行うことも多く、二県に跨った近代化遺産群は「関門“ノスタルジック”海峡~時の停車場、近代化の記憶~」として、二〇一七年、日本遺産に構成文化財四十二件が認定されました。 明治二十一(一八八八)年に、九州初の鉄道会社・九州鉄道が政府に設立認可され、広域で路線を拡大。門司駅は、明治二十四(一八九一)年に開業となります。本州と九州を結ぶ窓口でもあり、石炭や米をはじめとする物資の集散地として発展し、明治三十四(一九〇一)年には、関門連絡船の運航も開始されています*4。明治四十(一九〇七)年七月になると、九州鉄道は国営化され、大正三(一九一四)年二代目の駅舎が完成し、現在の場所へ移転・開業しました。昭和十七(一九四二)年関門トンネルの開通に先立ち、門司駅の名称は関門トンネルが接続する大里駅に使用されることになり、「門司港駅」に改称されました。 門司港駅舎は、木造二階建てで、ネオ・ルネッサンス様式*5と呼ばれる左右対称の外観が特徴です。駅構内には、青銅製の手水鉢、大正時代には珍しい水洗式トイレ、大正モダンデザインの洗面所など、様々な歴史的資産が現存しているほか、「一・二等客待合室」・「チッキ(手荷物)取扱所」・「貴賓室」等の施設も別用途で利用されて駅舎の1階エントランスを入った右手は旧3等の待合室が、左手には旧1、2等の待合室が設けられていた。復原駅舎では、旧1、2等の待合室がきっぷ売り場となっており、マントルピース(暖炉)が残っている。2つのホームの間には日本の鉄道開業100周年を記念して建立された九州の鉄道起点を示す0哩(マイル)標がある。*3 8月13日に開催される関門海峡花火大会は、門司側と下関側の両岸で打ち上げられる。また、2012年から行われていた「門司港キャンドルナイト」が2018年11月には、下関市と共催で「関門海峡キャンドルナイト」を開催。港湾に暖かい火がともり、大いに賑わいをみせた。*4 関門連絡船へと繋がる通路跡には、旧日本軍の命令で設置された渡航者用監視窓の跡も残されている。門司港駅が外来航路の寄港地であり、戦時下の不審者を発見する格好の場所だったとされるためである。*5 ネオ・ルネッサンス様式とは、19世紀前半からヨーロッパで始まり、日本を含む世界へ広がった建築様式で、ルネサンス建築(イタリアのフィレンツェで1420年代に始まり、17世紀初頭まで続いた建築様式)に基づきながら当時の荘厳さや各地の新しい建築方式を織り交ぜたもの。日本では、京都市の中京郵便局が代表的建造物。*2 江戸時代後期の長州藩士。幕末に長州藩の尊王攘夷の志士として活躍。奇兵隊など諸隊を創設した。03

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