ZENTOKU 2019年秋号
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郵政博物館館長、井上卓朗氏。前島が作成した「鐵道臆測(鉄道憶測)」は、日本の地形を考慮に入れ、どのくらいの「経費」「得失」「用費」がかかるのかをまとめあげたものです。これを根拠にして建議書が作成され、京浜間の鉄道敷設が着工となります。各地諸物貨運送賃銭表 (明治5(1872)年)★大坂飛脚問屋・津国屋十右衛門(東海道飛脚賃銭表)(安政4(1858)年) (株式会社鳴美所蔵)03郷土に対する愛と責任北越鉄道との一一年間 上越を郷里とする前島に渋沢栄一がかかわる北越鉄道の経営の声がかかったのは、当然の成り行きだったのかもしれない。前島自身も「交通上、越後の富源を開くには甚だ不完全」(『鴻爪痕 前島密伝』一四八頁)と、鉄道の不備を憂慮していたからである。 現在の直江津・新潟間、約一三〇キロを走る北越鉄道。すでに官職を辞した前島密が、その創立委員長に推されたのは鉄道臆測を記してから約二五年、明治二七(一八九四)年のことだ。 当時、明治政府は日清戦争による戦費がかさみ、国営鉄道を敷く余裕はなかった。そこで、国も創立委員も株式会社、私営での設立を模索した。前島が民間の北越鉄道株式会社の社長に就任したのは、創立委員長に就任した二年後の明治二九(一八九六)年のことである。社長としての在任期間はわずか一年。だが、その後も取締役に残り、経営のアドバイスを行ったという。金調達の方法など)の積算について精通していたことに舌を巻いたようだ。 郵政博物館館長の井上卓朗氏は、「前島の優れた数学的な能力と、若い頃に学んだ兵学や蒸気船の知識、静岡藩での経験がものをいったのでしょう。前島は静岡藩にいた時代に『東海道中舟路之概略』のなかで、浜名湖の今切から浜松までの運河建設の経費を算出しています」と語る。 ちなみに、北越鉄道の建設にたずさわった人物に、後に「日本鉄道の父」と呼ばれた井上勝がいる。彼も、前島が記した鉄道臆測を「鉄道予算の元祖」と評価したという。京浜間の鉄道敷設へ陸運インフラの整備が郵便制度へと昇華 ★★

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