ZENTOKU 2020年冬号
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HISOKAMAEJIMA没後100年特集黒船ショック★ 国防のため港湾を見て回る★商船を志向する★02始まりは、国防・海防の重要性前島密の偉業を追って❸ ★ 郵政博物館所蔵 なぜ、前島密は海運に目を向けたのか。 まず、江戸末期から明治初期の日本では、少量の、かつ近郷への運搬物、また、書簡などは飛脚いわば人力による陸運に依るところが大きかったが、大量の物資を運ぶには、陸運よりむしろ海運が身近な存在だったことが挙げられる。 そして、前島の郷里である越後(新潟県)・上越地方は、江戸時代は日本海海運の北前船の寄港地として、寺泊、出雲崎、柏崎、直江津、糸魚川などの港町が栄えていた。前島は直江津近郊の下池部村に生まれ、七歳から四年ほどの間、糸魚川の叔父相沢文仲の元で暮らしていた。 一二歳でオランダ医学を学ぶため江戸に出て、筆耕の仕事などを元に苦学を重ね、西洋に関する知識を深めていた頃、衝撃的な出来事が起こった。一八五三年、ペリー提督の浦賀(神奈川県)来航である。前島はこのことを知ると浦賀に赴いた。威風堂々とした軍艦と近代的な軍隊。前島はその姿に圧倒されながらも危機感を覚え、日本が独立した国家となるための国防・海防の重要性について考えるようになり、全国の砲台や港湾を見てまわる旅に出る。 旅から帰ると、西洋砲術や数学を学び、海運学を指向する中、一八五七年、オランダから幕府に寄贈された日本初の蒸気帆船・観光丸が、江戸時代後期の航海技術者である竹内卯吉郎によって長崎から江戸に回航されてきた。 竹内は、安全な航海術と効率的な海運を研究する機関学を学びたいという前島の願いを聞き入れ、観光丸に乗船させた。横須賀港(神奈川県)に停泊した観光丸の甲板上での出来事だ。海に囲まれた日本国防前島密と海運の礎近代日本の海運の草創に、前島密が深く関わったことは、あまり知られていない。前島はどのようなことをきっかけとし、何をめざして海運の礎を築いたのか。現在に続く日本郵船株式会社、一般社団法人日本海員掖済会に残る資料からもその足跡をたどることができる。

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