ZENTOKU 2020年冬号
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出典:国史肖像大成近代日本人の肖像 > 岩崎弥太郎(いわさき やたろう)Copyright © 2013 National Diet Library, Japan. All Rights Reserved.岩㟢弥太郎(国会図書館所蔵)(国会図書館所蔵)04 政府の商船管理方針を早期に確立し、海運の近代化・振興を推進しなければ、海外への海運の進出はむずかしい。そう考えた前島は「海運振興三案」を盛り込んだ建議書を記し、大久保利通に決断を求めた。 三案の中で、実現可能な「設立した民間会社を政府の保護下に置き、援助して育成する。経営者は民間の有能・適任者を選ぶ」の選択を求め、その適任者として推薦したのが、当時、海上輸送を営んでいた三菱商会の岩﨑弥太郎だった。 明治政府は一八七五年一月、岩﨑に横浜・上海線の開設を命じ、前島が建議した「海運振興三案」は大久保によって「商船管掌事務の義に付き正院へ御伺案」として太政官に建議された。そして、三菱の海運への起用が決定した。日本郵船の誕生 前島密は一八七五年九月、駅逓頭として三菱に第一命令書を交付した。 その内容は、①台湾出兵中に委託した東京丸以下一三隻を無償で提供すること②運航助成として年二五万円を給付すること③郵便物・官物の搭載を行うこと④海員養成の助成金を年一万五〇〇〇円の割合で支給すること などであった。 この第一命令書により、三菱は三菱商会という社名を郵便汽船三菱会社と改称した。それが、現在の日本郵船株式会社である。郵便汽船三菱会社は自社保有の船を合わせて合計四〇隻を超える船を所有することになった。 当時、外国航路を独占していたパシフィック・メール蒸気船会社と上海航路に乗り出した三菱は、激しいダンピング競争を繰り広げた。 そこで前島はパシフィック・メール社から上海航路の営業権を買い取ることを三菱に提案し、財政支援を約束した。そして、三菱は上海航路のすべての権利を獲得し、日本から上海への航路を独占したのである。 このように明治初期から中期にかけて、日本の海運は官民一体となって発展し、日本海運の基盤を築いていった。 なお、三菱は一八七五年に、商船業務について学ぶ商船学校も設立している。現在の東京海洋大学である。その設立も前島の指示によるものだったことを付記しておきたい。出典:近世名士写真 其1近代日本人の肖像 > 大久保利通(おおくぼ としみち)大久保利通 1876(明治9)年、3月18日、前島密が井上(勝)鉄道頭に送った書状。岩﨑弥太郎の願状を受けて、沿岸防衛保護のため、P&O社と京阪間鉄道との荷物接続を許可しないよう要請している(日本郵船歴史博物館所蔵)。1876(明治9)年、3月3日、郵便汽船三菱会社社長・岩﨑弥太郎が駅逓頭であった前島密に宛てた願状。英国P&O社の横浜・上海航路と京阪間鉄道との荷物接続輸送を許可しないよう願い出たもの(日本郵船歴史博物館所蔵)。日本郵船

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