ZENTOKU 2020年春号
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05機会平等を企図した訓盲院の設立 訓くん盲もう院いんとは、視覚障がい者教育を進める楽善会という組織が一八七六年に設立を申請した教育機関である。前島はその設立時に盲もう聾ろう唖あ教育の先駆者とされた山やま尾お庸よう三ぞうらとともに高額な寄付を行った一人である。一八七九年には校舎が完成しているから、東京専門学校の創立とほぼ同時期である。前島は東京専門学校と訓盲院、両方の「学びの場」の財務を支えたということができる。 訓盲院はしばらくして聴覚障がい者も受け入れ、現在も筑波大学附属視覚・聴覚特別支援学校として学びの場を提供している。視覚特別支援学校は東京都文京区目白台に、聴覚特別支援学校は千葉県市川市国府台に校舎があり、 多くの生徒を受け入れ、優秀な人材を輩出している。 実際に訓盲院設立の頃、前島は点字のような表音記号を用いた音符文字による教育を提唱していた。その主張は文字を凸字で示すことによる通常の文字教育を主張する山尾らに退けられた。だが、のちに点字創案者として著名な石いし川かわ倉くら次じが点字の基本を完成させ、それが今日も視覚障がい者教育に使われている。 なお、訓盲院で前島は、生徒の職業訓練や学費調達にも尽くしている。障がいを持つ生徒が経済的に自立できるように、職業訓練を兼ねて生徒に封筒をつくらせ、それを駅逓局へ卸し、その利益を生徒に渡して学費の補助とするなど一貫して生徒の独立・自立を支援した。それは、機会の平等をめざした自主独立と経済的循環を止揚させる施策ということもできる。訓くんもういん盲院盲学校、聾学校の設置を主張し、障がい者教育に取り組む山尾庸三らは、1875年に楽善会を発足させ、1876年には盲学校「楽善会訓盲院」の設立認可が下りる。その際に、東京府(現東京都)より3000円が下賜された(上写真)。訓盲院は現在、筑波大学附属視覚・聴覚特別支援学校となり、同校には訓盲院の設立に寄与した前島密の肖像画が保管されている(右写真)。前島は訓盲院の設立の頃、点字のような表音記号を用いた音符文字による教育を提唱していた。だが、訓盲院では、目に障がいを持つ生徒に対して前島が異を唱えた凸字による教育が行われた。★訓盲院の生徒がつくった封筒。前島の勧めにより、訓盲院の生徒たちは初代院長の大内青巒(おおうち せいらん)が作成した器具を使って封筒を製作した。右の宛名下には、訓盲院の生徒が製造したことを示す印が押されている。なお、大内青巒は仏教による啓蒙思想家で、東洋大学学長となったことでも知られる。★

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