ZENTOKU 2020年夏号
2/16

HISOKAMAEJIMA没後100年特集(鹿児島県歴史・美術センター黎明館所蔵)寺島宗則(松木弘安時代)02官営を推した「電話事業の創設」前島密の偉業を追って❺*1伊い東とう 玄げん朴ぼく 寛政12(1801)年〜明治4(1871)年。江戸時代末期(幕末)から明治にかけての蘭方医。江戸幕府奥医師。近代医学の祖で、官医界における蘭方の地位を確立した。*2寺てら島しま 宗むね則のり 天保3(1832)年〜明治26(1893)年。明治維新後、外務卿として不平等条約の改正などに活躍。「外交問題に取り組むには、政府中央と綿密に連絡を取り合うこと  が必要である」と主張し、そのために電信の必要性を説いた。★ 郵政博物館提供★ 郵政博物館収蔵 前島が関わった通信事業を追うに先立ち、まず電信機の歴史に触れておきたい。日本最初の電信機は「ブレゲ指字電信機」と呼ばれる。フランスのブレゲ社が一九世紀に製作した電信機で、送信機のレバーを回転させて目的の文字を示すと、受信機の針が回転し、文字を指す仕組みになっている。 日本では明治二年に、東京築地の運上所(現在の税関)と横浜裁判所の間で公衆電信業務が開始された。翌明治三年には大阪と神戸に電信が開通している。この初期の電信に用いられたのがブレゲ指字電信機である。 なお、ブレゲ指字電信機は受信側では針から目が離せないという難点があり、明治五年にはモールス方式の電信機に変わっていった。日本の電気通信の父、寺島宗則との出会い  前島は、弘化四年、一二歳のときにオランダ医学を志し、江戸に遊学するが、師を探し求め、一三歳のとき蘭方医の大家・伊東玄朴*1のもとで学びたいと再三頼み込んだが、叶わなかった(『自叙伝』)。この時塾長を務め、前島の懇願を受けたのが、前島密と通信 近代国家において、情報を広く・早く伝えることは重要かつ喫緊の課題であった。前島密は、このことを早くから認識し、郵便だけではなく新聞や通信の事業にも積極的に携わっていく。 今回は、日本における電話事業の創成期に前島が関わった通信にスポットを当てる。通信分野への取組みは電話という当時の新技術への挑戦も意味していた。ブレゲ指字電信機は、フランスのブレゲ社が19世紀に製作した電信機で、送信機のレバーを回転させて目的の文字を示すと、受信機の針が回転し、文字を指す仕組みになっている。★前島密(逓信次官時代) ★後年日本の電気通信の父と称される寺島宗則*2(当時は松木弘安、一六歳)であった。明治2(1869)年、東京築地運上所・横浜裁判所間で公衆電信業務が開始された。東京築地運上所の近く(中央区明石町)には「電信創業之地」の碑が建つ(碑は昭和53年に現在の地に移設)。

元のページ  ../index.html#2

このブックを見る