ZENTOKU 2020年夏号
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(国会図書館所蔵)渋沢栄一03(国会図書館所蔵)榎本武揚(国会図書館所蔵)大隈重信が電話事業の民営論を視野に入れていたのか。当時、明治政府はインフレ抑制のため緊縮財政を推進し、電話事業という新規施策による出費を避けたかったからである。一方、官営論者は、巨額の電話線の建築費や保守費によって民営では立ち行かなくなる恐れがあり技術的にも官庁や警察の機密保持が難しい、と主張していた。国の事業として推進 明治二〇年、逓信省は局に分かれていた組織を編成し、電話は内信局と工務局が担当することになった。翌明治二一年一一月、前島は逓信次官に就任す官営か民営か、の攻防戦 前島が逓信次官となる前に電信技術は一部で普及していたが、より利便性の高い電話事業を推進すべきという機運も高まっていた。だが、それを「官」が進めるか「民」で進めるべきか、当時は工部省の官営論と太政官の民営論が対立していた。ちなみに渋沢栄一は民営論者で、私設による電話事業の請願をしていた。 明治一六年九月、電話創設の文書が工部省より太政官に提出された。この文書には官営、半官半民、民営三つの案が示されていた。だが、太政官は民営について調査・再上申するよう工部省に指示した。その太政官に対して、工部省は官営案を再上申するという状況だった。 明治一八年一二月、太政官制が廃止され、内閣制となった。この時、工部省も廃止された。工部省の業務を引き継いだのは、新設された逓信省であった。官営論と民営論。この両論は、逓信省内部でも渦巻いた。それは民営論を唱える逓信大臣の榎本武揚と、官営論を主張する逓信次官の野村靖との対立でもあった。 なぜ、明治政府る。かねてから電話事業は国利のためにも官営が望ましいと考えていた前島は、民営論者であった逓信大臣の榎本武揚を説得し、逓信省内を官営に統一した。前島は外務大臣の大隈重信にも働きかけ、内閣の意見も官営論に変えていった。 前島は、短期間に電話事業を全国に広げるには鉄道と同様に国営で行うべき、と考えた。巨額の設備投資が必要な国家規模の事業は当時の民間資本では難しく、まして電話事業は当時の最新技術であり、日本が近代国家として威信をかけて取り組む事業であった。明治32(1890)年当時の日本最初の電話交換室。当時、電話交換は女性に人気の仕事で、写真として残り(上)、絵画として描かれた(下)。浮世絵風の和服姿で電話交換業務を行う女性の図柄は、郵便切手にも使われた。(左下)(全て★)

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