ZENTOKU 2020年夏号
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05前島記念館(新潟県上越市)の別館にも、電話の歴史と変遷が展示されている。上と左の写真は佐渡(新潟県)の赤玉局で使用していた昭和34(1959)年の51号磁石式交換機。なお、新潟県内の電話は昭和54(1979)年、同局を最後に、すべてダイヤル式となった。主に展示されているが、その企画展示ゾーンでは、通信事業の歴史に関わる展示も行われている。「女子電話使用ノ図」という中村洗石作の絵画が展示されていたこともあった。新潟・上越市にある前島記念館の別館には、前島の遺品や郵便の歴史とともに電話の歴史が展示・紹介されている。 また、前島は明治二三年三月に東京電信学校を東京郵便電信学校と改称している。二年の修業年限で二科に分かれ、甲科が郵便電信管理事務等を学び、乙科は主に電気通信技術を学ぶ体制を敷いた。そこには、電気通信と郵便、双方の知識を得た幹部人材が必要だという通信分野の要請に応えた見直しであった。 前島が逓信次官を退官したのは、東京郵便電信学校という郵便・電信における幹部教育の組織体制が整った翌年、明治二四年三月のことである。おそらく前島はその時、逓信次官としての役割を果たし終えたと感じたのであろう。 あと数ヶ月、次官として在任すれば恩給を受け取ることができた。「恩給を受けるまで、時を待て」と言う友人たちに対し、前島は笑って次の詩をよんだと言う。 我豈座歹恩給禄 当知斯禄弟兄膏 三杯村酒終生足 一片月明千里濤       (「後半生録」より) 前島は「仕事もせずに恩給禄をいただくことなどできない。禄の源は人々の努力、汗なのだから」と答えたのである。明治23(1890)年に東京電信学校から改称された東京郵便電信学校の正門。写真は明治35(1902)年頃に撮影されたものと思われる(逓信同窓会「120年の歩み」より)。★明治11(1878)年 国産1号電話機 日本人の手によって初めて作られた電話機。中村洗石が描いた「女子電話使用ノ図」。1911(明治44年)の作。電話創業100周年の記念切手の図柄にも採用された。描かれている電話は1896(明治29)年から採用されたデルビル磁石式壁掛電話機。★東京電信学校を東京郵便電信学校に改称した経緯を記した前島のメモ。電信と郵便、両方の実務知識を学んだ幹部人材の育成が必要と説いている。★食

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