ZENTOKU 2020年秋号
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HISOKAMAEJIMA没後100年特集岩瀬忠震の顕彰碑。岩瀬は幕末における開国論の中心的存在として活躍し、横浜の開港を首唱したことでも知られる。碑は横浜開港の恩人への感謝の意を込め、1982(昭和57)年、横浜郷土研究会の有志が高台から横浜市街を望む本覚寺に建立した。10代の前島(左)は国防のため西日本の港湾を見て回った。得られた教訓は、若さに任せた港湾見学は学問の伴わない実のない行動であったという自戒。その頃、後に外国奉行となる岩瀬忠震(右)から「これからの志士は英語を学ぶべきである」と諭された。★**「せざるべらず」は原文ママ。 「せざるべからず」ではなかったかと思われる。「‥しなければならない」の意。02反省と開眼の西日本周遊前島密の偉業を追って❻★ 郵政博物館収蔵 そもそも前島は、なぜ英語を学ぶことを決意したのか。ペリー提督の浦賀来航を目の当たりにし、国土を守ること、特に海防の重要性を痛感した前島は、日本各地の港湾の実情を視察するため、一八五四年、西日本周遊の旅に出た。 江戸から郷里の上越へ。そこから北陸道から山陰道を経て、九州・長崎、肥後から日向へ。さらに伊予、讃岐、紀伊、伊勢、三河を経て江戸に戻る大旅行である。鉄道もなければ地図もない。宿がなければ野宿だ。西日本周遊の旅は困難を極めたはずだが、前島はこの旅で西日本の主だった港湾を見てまわった。 この西日本の周遊によって、前島は何を得たのだろうか。江戸に戻った前島は、これまでの行動は、若さに任せた妄動であったと悟った。「向後は謹慎勉学せざるべらず。学無くして徒に妄動するは、実に狂者の所しょ為いなり」(『鴻こう爪そう痕こん 自叙伝』(以下、自叙伝)より)と痛感したのである。英語を学べ! 岩瀬忠震の教え 江戸に戻った前島は、儒学者の名門である林りん家けの林大だい学がくの頭かみの親戚筋に当たる設し楽だら弾だん正じょうの屋敷に住み込み、書生としての生活を送った。その弾正の兄が水みず野の忠ただ徳のり、小お栗ぐり忠ただ順まさとともに幕末三傑といわれた岩瀬忠震だった(忠震は岩瀬家の養子となり家督を継ぐ)。前島は弾正を通じて儒学者の家系である林家の蔵書に触れ、さらに幕臣であった岩瀬の教えを請うことを期待していた。 当時、岩瀬は江戸幕府において海かい防ぼう掛がかりの要職にあり、一介の書生である前島が滅多に会える存在では前島密と教育(語学に関する視点から)明治維新を迎え、日本は近代国家として何を、どう学ぶべきか。日本各地を見て回り見聞を広めるだけでは、国家建策の用をなさないと痛感した前島密は、岩いわ瀬せ忠ただ震なりに教えられた英語を学ぶことを決意する。米国はもちろん諸外国の要地で通用する英語(英学)は、いち早く西洋文明や政治諸制度・インフラ・生活様式などの実相を学ぶためのツールであった。だが、鎖国が解かれたばかりの日本には英語を学ぶ書はほとんどなく、その師も存在していなかった。

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