ZENTOKU 2020年秋号
3/16

(立教大学所蔵)チャニング・ムーア・ウィリアムズ前島は20代後半、長崎でキリスト教宣教師ウィリアムズやフルベッキから英数学を学び、文久3(1863)年には遣欧使節の通訳となった何礼之の従者として洋行するチャンスをつかむ。だが、結局、洋行は失敗に終わった。★03チャニング・ムーア・ウィリアムズ所学頭であった何が礼れい之しが(のりゆき)つくった英語の私塾に学んだ。 また、前島は二〇代の後半になっていたが、当時、前島に英語を教えた外国人が二人いる。チャニング・ムーア・ウィリアムズ(Channing Moore Williams)と、グイド・フルベッキ(Guido Herman Fridolin Verbeck)という宣教師である。 チャニング・ムーア・ウィリアムズは一八五九年なかった。だが、あるとき前島は岩瀬と面談し、次のように諭された。 「凡そ国家の志士たる者は、英国の言語を学ばざるべからず。英語は米国の国語となれるのみならず、広く亜細亜の要地に通用せり。且英国は貿易は勿論、海軍も盛大にして文武百芸諸国に冠たり、和オランダ蘭の如きは萎い靡ぶ不ふ振しん、学ぶに足るものなし」(『自叙伝』より) 一言で述べると、「オランダ語を学ぶ必要はなく、これからは英語を学べ」。この言葉に前島は深い感銘を受け、英語を学ぶことを決意した。外国人宣教師らとの交流 前島は英語の必要性・重要性を痛感したが、幕末の江戸ではその師に恵まれず、英語の書物を得ることも困難で、本格的に英語を学ぶことはできなかった。 では、前島はどう対処したのか。一つは独学である。上越市の前島記念館には、前島が独学のためにや佐賀藩主の鍋なべ島しま直なお正まさが長崎に設立した英学の藩校である到ち遠えん館かんで教育に従事、幕末の一時期、次代を担う人材の育成に貢献した。前島にはチャニング・ムーア・ウィリアムズと同様に、長崎で英語や数学を教えた。 ちなみに、前島が彼ら宣教師に英語を学んだ同時期に、数学を学んだ仲間がいる。大隈重信である。実は鍋島直正の許可を得て「致遠館」を設立したのが大隈重信であり、グイド・フルベッキをその校長に招いたのである。 グイド・フルベッキは明治維新直後の一八六九年に東京に赴き、政府顧問として法律の制定や大学の設立などに関するアドバイザーとしても活躍している。のちに前島は租税権ごんのかみ正となるが、その際にも政府顧問であったグイド・フルベッキに英米の租税法について教示を受けている。 前島と親交を深めた二人の宣教師。前島は彼らに英語を学ぶだけでなく、西洋の国政のあり方も学んだ。それは、まさに言葉だけの英語ではなく、実践的な活きた英語というべきものだったのかもしれない。前島は、きっと英語を学ぶ意義をそのように捉えていたのであろう。(明治学院歴史資料館所蔵)グイド・フルベッキグイド・フルベッキ使用した英語の単語帳が展示されている。 もちろん、独学だけでは十分な知識・能力を培うことができない。そこで、前島は英語を学ぶ機会、チャンスを捉えるべく動いた。 前島が長崎に赴いたとき、幕末から明治期にかけて活躍した翻訳家であり、長崎奉行所の英語稽古に米国聖せい公こう会かいの宣教師として長崎を訪れ、キリスト教の伝道に務めた。英語や英米の文化普及にも貢献し、一八七四年には立教大学の前身となる私塾「立教学校」を開いている。そのチャニング・ムーア・ウィリアムズが長崎で前島に英語と数学を教えた。さらに前島は、米国の通信・郵便制度の基本についても学んだようだ。 もう一人のグイド・フルベッキは、オランダ生まれの改革派教会の宣教師である。米国を経て、チャニング・ムーア・ウィリアムズが長崎を訪れたのと同じ一八五九年に来日した。のちに済さい美び館かんと呼ばれる長崎の洋学所(長崎英語伝習所)

元のページ  ../index.html#3

このブックを見る