ZENTOKU 2020年秋号
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何礼之は長崎奉行所の英語稽古所とは別に私塾を開き、前島はその塾長に推薦された。英語を学ぶ仲間のため崇そう福ふく寺じに「培ばい社しゃ」と称する学舎を開いた。その培社の一員である鮫島誠蔵を通じて薩摩藩から開成学校の英語教授として招かれた。鹿児島では手厚く処遇されたが、兄の又右衛門死去の知らせを受け、鹿児島を離れることになった。★(左=鹿児島に赴く前島密。右=長崎で塾長を務める前島。右から2番目の立ち姿)04薩摩・開成学校の英語教師に鮫さめ島じま 誠せい蔵ぞう ★鮫さめ島じま 誠せい蔵ぞう★ 実践的な英語を身につけていった前島は、やがて何礼之がつくった私塾の塾長として英語を教えるようになった。だが、塾の仲間や生徒には、志は高くても生活に困窮する人もいた。そういう仲間・苦学生に対して、前島は培ばい社しゃという合宿所(学舎)を開いた。培社は財政事情も厳しく短期間の開設に終わったが、この施設を前島が初めてつくった私設教育機関とみることもできる。 その培社の一員に、薩摩藩士の鮫島誠蔵がいた。鮫島は一八四五年、薩摩藩医の鮫島淳じゅん愿げんの子に生まれ、藩命で長崎に遊学した。前島と出会ったのは培社の塾生となったときだ。英語の重要性・必要性をともに痛感していた二人は親交を深め、鮫島は薩摩藩が西洋の学問を学ぶ開成学校を開く際に、前島を英語教師として招いた。前島は、自分が学究をめざしているわけではなく英語も未熟だと、最初は誘いを断った。だが、鮫島の再三の要請に根負けし、受けることにした。 前島は藩船に乗り鹿児島に赴き、英語教師の職に就いた。開成学校への赴任期間は一年ほど。その間、前島はよき仲間や生徒に恵まれたようだ。仲間のなかには、日本海軍の先駆者といわれる林謙三や明治維新後に神戸郵便局長となった橘恭平がいた。前島の兄、又右衛門の不幸もあり、開成学校・薩摩を離れる際には、多くの生徒たちの見送りを受けた。その様子を「多数の書生は別を送りて、三里外の某村に到り、再び盛なる宴を開き、特に惜別の歌を造りて合奏せり」(『自叙伝』より)と記している。 なお、前島を開成学校に招いた鮫島は、薩摩藩幕末期、前島に英数学を教えた宣教師・ウィリアムズが長崎で暮らした崇福寺。前島はここに培社を開いた。

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