ZENTOKU 2021年春号
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HISOKAMAEJIMA没後100年特集JR磐田駅南口のロータリーにある前島密像と、郵便事業創業当時のものを復元したというPOST(書状集箱)。前島にとって遠州中泉は、中央政府で活躍するきっかけとなった赴任地であった。02第一の事業静岡・中泉に「救院*1」を創立前島密の偉業を追って❽*1 救院とは、災害などで困窮した人々を救済する施設のこと。 *2 天竜川は、度重なる洪水で氾濫し、古くから「暴れ天竜」と人々に恐れられた。*3『鴻爪痕』(大正9年版)は、前島密の一周忌の記念として関係者に贈呈された。前島密が記した自叙伝の他、聞き書きや、前島密ゆかりの方による寄稿文などが収載されている。 明治維新直後の明治二年一月、前島密は駿河藩の中泉という地に奉行(のちに開かい業ぎょう方がた物ぶっ産さん掛かかり)として赴任している。駿河藩とは現在の静岡市に建つ駿府城を中心とした藩で、中泉は現在の磐田市の中心部に位置している。 当時、駿河藩では三カ所に奉行が置かれていた。当時の奉行は、明治維新後に江戸から移住してきた旧幕臣とその家族の住居(長屋)を建て、桑・養蚕、織物などによる生計の維持・向上を支援し、そのための学舎も設立する、すなわち自治体に置かれた生活福祉課・産業振興課的な役割を担っていたのだろう。静岡・中泉の地は「暴れ天竜*2」と呼ばれる天竜川に近いため、川の氾濫も多く交通の難所であり、水害で生活が困窮する庶民も多かった。 中泉奉行について前島は『鴻こう爪そう痕こん』のなかで、「遠州中泉奉行に任ず」と題して「明治二年余は本藩より遠州中泉奉行に任ぜられたり。本職は普通民政を掌るものなれども、江戸より移住すべき七百戸余の無禄士族を統轄するは、誉有る職なると共に亦頗すこぶる苦心を要する職たり」と述懐している。旧幕臣の生計を立て直すために、相当、腐心した様子がうかがえる。産業を興すことによって生活を安定させる。前島に大きな期待がかかっていた。 前島は明治二年十二月には明治政府に出向いていたから、静岡への赴任期間は一年足らず。その短い期間のなかで、前島は中泉救院の創設に取り組んだ。明治二年五月に中泉周辺の寺院約二〇〇寺に向けて救院の創設に関する文書を発する。宗派の垣根を越前島密と殖産・地域活性化明治初期、前島密は開かれた日本を築くという時代の機運を捉え、殖産興業、すなわち産業振興策に着手している。最初の赴任地である静岡で取り組んだ二つの事業と、第一回内国勧業博覧会の取組みは、まさに殖産興業への布石。その実像を探る。JR磐田駅の南西にある「泉せん蔵ぞう寺じ」の境内。救院は最初、この寺に設置された(写真中央)。写真左は仮の救院が最初に設けられた泉蔵寺の山門。写真右は現在の静岡県立磐田農業高等学校のそば、県道56号線沿いの弁当店の駐車場隅にひっそりと立つ「旧救院跡」の碑。*3

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