ZENTOKU 2021年春号
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JR磐田駅南口のそば、中泉陣屋跡にある「御陣屋跡軍兵稲荷道」 の道標。03教育振興に力を入れた静岡藩(明治2年8月に駿河藩より改名)が教授所を設けたとされる中泉寺。中泉寺山門は中泉陣屋の裏門の1つを移築されたものと伝えられる。明治中期にいたる殖産興業による社会福祉の原型と捉えることができる。前島は静岡・中泉の地で、その先駆的事業を断行したのである。第二の事業 構想力を発揮した『東海道中舟路之概略』 前島が明治三年に鉄道建設のために建議書『鐵てつ道どう臆おく測そく』を作成したことはよく知られている。その下地として評価されるのが、明治二年に作成した『東とう海かい道どう中ちゅう舟しゅう路ろ之の概がい略りゃく』である。 前島はその作成月や経緯に関して、『鴻爪痕』のなかで次のように記している。 「太政官は制度を革新して、奉行の如き民政其他の合掌せるものを廃止したり。是に於て、余は駿河藩産業掛を命ぜられたり。然れども、這は新造の職にして、何等執るべき勤務無ければ、直に之を辞せんと思ひたるも、故ことさらに少時停止し、乗馬と森銀次郎とを伴ひ、私費を以て藩内の要地を巡廻し、人に問ひ物に閲して、産業の如何を察し、之を録して老臣に呈したり。此日民部省は余を徴召するの命を伝へたり。時に明治二年十二月なり。」 まだ鉄路のなかった東京・大阪を結ぶ東西輸送において、海路の難所ともいえる遠州灘をどう回避するか。これは明治新政府にとって喫緊かつ重要な課題であった。 前島は、『東海道中舟路之概略』の冒頭で、その趣意を次のように述べている。 「今能く富国利民の本を察し、詳に海道の地形を観、溝を穿うがち海を通し、左之舟路一行を開かハ此艱渋を一掃し、百里一瞬、東西を通し、物貨流行、国力振起之盛に可及」えて僧侶の奮起を促し、仏教界全体の役割として救院創設が必要だと訴えた。 実際に救院が創設されたのは、明治三年六月のこと。中泉村の泉蔵寺に仮の救院を設置した。 前島はこの設立に直接は関わっていないことになる。だが、中心的役割を担う寺院によって寺院惣代・組合をつくり、細かな規則を設けて輪番制で運営するなど、創立・運営の方法を細かく立案した。規則には救院への入居者の生活のスケジュール、子女教育の手法、資金繰りへの対応など、救院と入居者ともに自立に向けた運営手法が記されていた。 中泉救院は明治二一年九月に閉院となった。だが、救院という施設は明治一三年六月に公布された罹災者救助・保険としての備び荒こう儲ちょ蓄ちく法ほうへの布石、さらに前島は中泉奉行時代、江戸から移住してくる旧幕臣に、織物や養蚕を習わせたりした。奉行職が廃止となった際には藩内の開業方物産掛となり、殖産興業を実践していく。★★ 郵政博物館収蔵  ★ 国立国会図書館所蔵

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