ZENTOKU 2021年夏号
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03銀行内に郵貯資金の預入制度を敷いた渋沢栄一 渋沢栄一は1840(天保11)年、武蔵国榛はん沢ざわ郡ぐん血ち洗あらい島じま村むら(現・埼玉県深谷市血洗島)に生まれ、「日本資本主義の父」と呼ばれていることはつとに有名だ。その渋沢と郵便・前島との接点はいくつもある。 まず、前島が静岡藩に赴任した当時、中央政府に前島らを推挙したのが渋沢だと言われている。前島は渋沢と明治政府の民部大蔵省改正掛にて仕事を通じて親交を深めた、いわば同僚・同志とも言える仲である。大蔵省は国家財政を司る官庁で、明治初期、民部省(駅逓、土木、地理を司る官庁)と大蔵省は組織再編を繰り返した。その改正掛とは、政策立案を研究作成する部署のことで、いわば政府系シンクタンクのような存在だ。 渋沢栄一が改正掛長で、前島密や杉浦譲はその実務を担った。 そして、第一国立銀行を創立した1873(明治6)年当時、銀行内に郵貯資金*2の預入制度を敷いたのも渋沢だった。渋沢の著書『青せい淵えん百ひゃく話わ』に「貯蓄と貯蓄機関」についての記述があるが、そこで渋沢は、宵越しの金は持たないという気質の江戸っ子の貯蓄意識の低さについて語っている。 1875(明治8)年に郵便貯金事業が東京と横浜の19局で始まった。1876年に大蔵省預金制度が創設され、集まった郵貯資金は同預金部と第一国立銀行に預けられた。 一方で渋沢は1892(明治25)年に、現在のりそな銀行に続く東京貯蓄銀行を創立する。「民間の小口貯金資金も多額に集まれば、融資・運用して経済発展に寄与する」と資本主義の範を示すような対応だ。おそらく渋沢は、陰に陽に前島を信頼できるライバルと見ていたのではないだろうか。渋沢栄一 ★業の枠組みづくりを進めたところで、実際の制度発足を杉浦に託した。 杉浦は敏腕を揮ふるい、その重責をまっとうし、郵便という国家事業を軌道に乗せた。郵便規則類の整備、書状集箱(郵便ポスト)や郵便用具の規格、郵便局の配置、均一料金制(実現したのは帰国後の前島)と切手の図案などを具体化し、郵便事業の発足・浸透に向けての実務を取り仕切ったのである。 杉浦の功績のひとつに日本最初の切手の発行がある。48文切手である。当時、切手は48文、100文、200文、500文の4種類が発行された。竜の模様が描かれていることから、竜りゅう文もん切きっ手てとも言われている。渋沢栄一の記念館「渋沢史料館」は、かつて渋沢が住んでいた旧渋沢邸跡地(東京都北区)に建つ。庭園には大正期の2棟の建築「晩ばん香こう廬ろ(洋風茶室)」、「青せい淵えん文ぶん庫こ(書庫)」(写真提供:渋沢史料館)が残る。他にも渋沢所縁の施設には、渋沢栄一記念館(埼玉県深谷市)、江東区潮見には移築工事中の旧渋沢邸がある。 杉浦の出生地である山梨県甲府市の遊ゆう亀き公園には、若き秀才として維新期を駆け抜けた杉浦の業績を偲んで、郵便事業百周年にあたる1971(昭和46)年に顕けん彰しょう碑ひが*1建てられた。 なお、杉浦には後述する渋沢との共著、『航西日記』がある。1871年の発刊で、杉浦靄あい人ととして著している。1867(慶応3)年に二度にわたる西洋体験をもとにした記録である。前島も渋沢も杉浦も、実業の世界でいかに西洋の情報を咀嚼して活かすかを競っていたのかもしれない。竜文切手 1871(明治4)年*1 個人の著名ではない功績や善行などを称えて広く世間に知らしめるために建てられる石碑などのこと。*2 郵貯資金とは、郵便局を含めた貯蓄金融機関が保有する貯蓄資金の一つ。貯蓄金融機関は、主に勤労者などの庶民を対象に勤倹貯蓄を奨励し、その資金を個人生活の安定などのために地域還元することを目的とする公益的な金融機関であり、低金利等の一定の制限はあるものの、安全確実に資産運用を行うことを特徴とする。 世界で初めての郵便局を拠点とする貯蓄金融機関(郵便貯蓄銀行)は、1861年イギリスで創設された。

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