ZENTOKU 2021年夏号
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「郵」という漢字が示すユニバーサルサービス 「郵」の偏へん(左側)「垂たれる」は草木の穂がたれるという意味で、辺境の地を表しており、旁つくり(右側)「阝おおざと」は「邑ゆう」という字が簡略化されたもので、「里」や「村」を表している。 二つの部首が組み合わさった「郵」は、もと国境に置いた伝令のための屯所(人馬を取り次ぐ宿駅)のこと。すなわち「郵便」とは、どんな辺へん鄙ぴな地域にも駅(郵便局)を置いて、物・情報・文化を伝えることの意味を持つ。 「郵ゆう便びん」と命名したのは前島だが、庶民にとって馴染みの薄い言葉であったため、当初「郵便箱」という文字が読めず「タレベンバコ」と読む人もいて、タレベン(便を垂れる=トイレ)と間違った庶民もいたという逸話も残っている。(『鴻爪痕』(前島密の自叙伝)に収録されている『郵便創業談』より)04坂野鉄次郎 ★岡山市にある坂野記念館。★ 新潟県上越市の前島記念館の傍らにある巨大な「男爵前島密君生誕之処」の碑。表面の題字は前島と親交のあった渋沢の筆であり、裏の撰文は市いち島しま謙けん吉きちの*3筆で、会あい津づ八や一いちと*4坪つぼ内うち逍しょう遥ようが*5校閲したものだ。近代郵便の「中興の恩人」坂野鉄次郎 坂野鉄次郎は1873年、岡山県御み津つ郡ぐん野谷村(現在の岡山市北区)に生まれた明治︱昭和前期の官僚、実業家である。東京帝大法科を卒業後、逓信省に入省し、通信局に勤務した。長野郵便局長、東京郵便局長、大阪逓信管理局長などを歴任している。 前島が「日本郵便の父」と呼ばれるように、坂野は近代郵便事業において「中興の恩人」と呼ばれている。その理由は、通信地図、郵便物区分規程の制定、年賀郵便の特別扱いなどを考案し、現在に至る郵便事業の整備に務めたからである。なお、坂野は退官後に中国合同電気(現中国電力)の社長も務めるなど、公私にわたり郷土の発展に尽力した。 郵便事業の整備という点では、その運営に科学的調査分析方法を駆使して通信地図を創案した。それまでの郵便は、道路網が整備されていないこともあり、配達時間の地域差が大きかった。この配達時間を調整するため、集配順路を決める共通フォーマットとして通信地図をつくった。それは、まさに現在の郵便事業にも脈々と息づくユニバーサル・サービスに向けた先駆的な取組みであった。 年賀郵便の特別扱いでは、かつて年賀状は書初めの1月2日に書き、松の内に届くように出すのが一般的な作法だった。ところが、それでは郵便局の年始業務が錯綜する。そのため、主要な郵便局に限定し、現在のような元日配送を行っていた。坂野はその集配を一般の郵便葉書と分けて特別に取り扱うという現在の仕組みを全国に広げ定着させたのである。 坂野の生誕の地・岡山市北区には坂野記念館が建てられている。1953(昭和28)年7月に逓信博物館分館として設立されたが、開館40周年を機に現在の地に新築され、いまは郵政博物館分館としての役割も果たしている。上越市前島記念館の傍らに建つ巨大な碑。渋沢との深い交流がうかがえる。*3 市島謙吉(1860年―1944年)越後国北蒲原郡水原(現在の新潟県阿賀野市)生まれ。ジャーナリスト、早稲田大学初代図書館長。衆議院議員を3期務めた。前島密の自叙伝『鴻こう爪そう痕こん』の編者。*4 会津八一(1881年―1956年)新潟県新潟市古町通五番町生まれ。歌人・美術史家・書家。1910年に坪内逍遙の招聘により早稲田中学校の英語教員となり早稲田大学教授も務めた。*5 坪内逍遥(1859年―1935年)美濃国加茂郡太田宿(現在の岐阜県美濃加茂市)生まれ。日本の小説家、評論家、翻訳家、劇作家。早稲田大学の前身である東京専門学校の講師となり、後に早大教授となる。前島密とは東京専門学校時代からの交流があった。記念館は、坂野の業績を示す資料が展示されているほか、ビデオやパソコンゲーム等で郵便・貯金・保険のあゆみや仕組みを楽しく学ぶことが出来る。★

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