ZENTOKU 2021年秋号
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03鉄道開業が郵便制度全国実施の後押しに 日本の鉄道事始めは、1872年6月(新暦明治5年5月)、品川─横浜間の鉄道仮開業までさかのぼる。 当時、前島密は駅えきていのかみ逓頭だ*2った。仮開業する直前、鉄道の運営を行う鉄道寮の責任者(鉄道頭)の井上勝に、列車に郵便物を積んで運ぶことを求めた。 井上は車内の一室を郵便物の置き場所に使うことを認めた。仮開業の2日後には、鉄道乗務員が乗車して郵便物を方面別に区分することができる専用の郵ゆう便びん合ごう造ぞう車しゃを*3連結した列車が、1日当たり5往復運行されたとの記録が残る。まさに電光石火の早業である。また、郵便物は袋状の行こう嚢のう(郵袋)に詰められ、郵送されていた。 東海道本線、東北本線など列車の運行距離が長くなると、沿線の受渡局も輸送量も増えるが、季節要因等により郵便物量も大きく変動することとなった。当然ながら輸送効率が下がる。そこで逓信省は、1890年頃(明治20年代前半)には、「車中継送区分」を開始した。この制度により、1両全部を郵便のために使用できる全室郵便車が普及することになり、乗務員の区分作業の迅速な処理と相まって効率的な輸送が可能になった。また、全室郵便車の普及により郵便小包の取扱いも始まった。 1903(明治36)年4月、それまで沿線の郵便電信局に鉄道郵便掛を置き乗務させていた逓信省は、鉄道輸送を一層進めるため、東京、札幌、青森、仙台、長野、金沢、名古屋、大阪、神戸、広島、熊本に計11局の鉄道郵便局を設置した。鉄道とタッグを組んだ郵便輸送の百十余年   明治初期に人力や馬に頼っていた郵便輸送は、大正期に入ると鉄道が完全に主役となった。昭和に入り、経済発展、人口増とともに郵便物は増加の一途をたどる。第二次大戦を経て、戦後には郵便車数や連結たのは、郵便取扱所(後に三等郵便局、その後特定郵便局)の開設である。全国各地の名望家、資産家に土地と建物を無償で提供してもらい、郵便の取扱事業を委託する形で設置された。明治5年度末に、1159局あった郵便局のうち、国が直接経営していたのは、わずか21局にすぎなかった。 また、町の要所に書状集箱(ポスト)の設置を進めるとともに、その近くに切手売捌所を開くなど、利用者の利便を図る工夫もしていた。 1873(明治6)年には今日まで続く全国料金均一制が採用された。重量2匁(7.5 g)以下の書状であれば、全国どこへでも、2銭で利用できるようになったのである。「郵便取扱の図」に描かれた郵便合造車に郵便行嚢を積み込んでいる様子。★戦争終結から30年にあたる1975(昭和50)年、郵便室で区分作業をする郵便局員。★青函連絡船洞爺丸に郵便物を積み込んだまま入船する鉄道郵便車。(1951(昭和26)年)★*2 駅えき逓てい司し・駅えき逓てい寮りょうの長官。駅逓司は、1868(明治元)年に設置された交通通信担当官司。後に駅逓寮・駅えき逓てい局きょくと改称され、後の逓信省の元になった。*3 合造車とは1両の車内に複数の設備を備えている車両のこと。郵便合造車は、郵便物を積載し、郵便局員が走行中に区分作業ができるようになっていた。

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