ZENTOKU 2022年夏号
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★「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」の切手。(発行2009年)★糸瓜の垂れ下がる子規庵と、「糸瓜咲て痰のつまりし仏かな」の俳句を載せた切手。(発行2002年)子規庵写真提供:子規庵保存会うせ日本の近代文学に多大な影響を及ぼした「夭よつ折の巨星」最後の横顔写真が切手の肖像に人・文学者である。明治維新直前の1867(慶応3)年10月14日(旧暦9月17日)、伊予国温泉郡藤原新町(現愛媛県松山市花園町)に生まれ、肺結核や脊せい椎カリエスを患い、1902(明治35)年9月19日、34年本名は常つり規。「子規」は1889(明治22)年、肺結核を患い、喀か血けしてから使い始めた俳号である。歌人、国語学研究家、新聞『日本』の記者としても知られ、俳句、短歌、新体詩、小説、評論、随筆、さらには絵画など多方面にわたり創作活動を行い、日本の近代文学に多大な影響を及ぼした。代表的な句に、さお正まか岡子しき規は日本を代表する俳きつねのなどがある。生涯に残した俳句は約2万5000句あり、短歌は約2500首を残している。これらの句のうち、「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」は、子規の療養生活の世話や奈良旅行を手助けしてくれた親友、夏なめ目漱そき石の「鐘つけば銀杏ちるなり建長寺」の句への返礼句ともいわれている。「糸瓜咲て……」の句は糸へま瓜*を1詠んだ2句と合わせ「絶筆三句」と呼ばれる辞世の句であり、命日(9月19日)はその句にちなんで「糸瓜忌」と呼ばれている。うせ庵*(2東京都台東区根岸)で撮られた横   最初の切手になった子規の顔写真は、1900(明治33)年12月24日、4回目を迎えた蕪ぶ村忌の翌日に子規顔のポートレートである。なぜ横顔なのだろうか。子規は1897(明治30)年から、俳人として高く評価していた与謝蕪村の命日(12月24日)に、子規庵に多くの俳人を集め、句会を開き始めた。その際には参加者と記念写真も撮影していたが、第4回蕪村忌の頃には、子規の病状が厳しく、記念写真には写らず、翌日に一人での撮影となった。撮影の際は体が動かせず、布団から起こしてもらい、そのまま撮ることが精一杯だった。写真を撮るには、露光の間は長くじっとしていなければならない時代である。子規は肺結核から脊椎カリエスを患い、1899(明治32)年の夏頃には座ることさえ困難になっていた。ほぼ寝たきりで、寝返りも打てないほどの苦痛を麻痺剤で和らげながら俳句・短歌・随筆などを書き続け、門人の指導にあたった。横顔が精一杯であり、向きを前に変えてじっとして微笑むことなどできなそん柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺松山や秋より高き天主閣春や昔十五万石の城下哉十年の汗を道後の温泉に洗へ糸瓜咲て痰のつまりし佛かな  っつ  ち   つ き  3多くの土産物店が並ぶ、道後温泉「ハイカラ通り」。円内は伊予鉄道城南線「道後温泉」駅。*1 糸瓜から採取した糸瓜水は、飲むと痰が切れて、咳が止まるといわれる。*2 子規が1894(明治27)年、27歳の時に移り住み、35歳で亡くなるまで過ごした住居跡。1945(昭和20)年の戦災により焼失したが、子規の門弟寒さむかわそこつ川鼠骨により再建された。道後温泉駅前の「からくり時計」。子規旧蔵写真「豫州松山城(豫州とは伊予国。現在の愛媛県の地域にあたる)」。裏に子規自筆の「松山や秋より高き天主閣」の句が記されている。★松山市立子規記念博物館収蔵11ヶ月の短い生涯を閉じた。   

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