ZENTOKU 2022年夏号
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*4★ユニフォーム姿の子規と松山城をモチーフにした切手。(発行2001年)雅号にみるお茶目な横顔数々の野球用語を翻訳野球愛好家としての子規なぎはらきょくどう柳や原極堂が書いた「同級生時代よかったのだろう。り句を学ぶまで」には、横顔写真の子規は「ほとんど別人の観」であった、と記している。子規のあの肖像は、子規を知る極堂のような人からすれば、ほとんど別人の容貌だというのである。送ったこの写真の裏には、「苦き思ひをしてヤツト腰から上を起せし……」「脊髓に非常なる痛つう痒を感ぜし」と耐え難い苦痛を伴って撮影されたことが記されてい*る3。規」の俳号を含め子規が用いた雅号のうち42種が展示されている。 「子規」は作句の際に最もよく使った俳号である。子規はホトトギスの別名。喀血した自分自身を、あたかも血を吐くかのように口の中が赤く、甲高い声で鋭く鳴き続けるホトトギスに、また中国の故事「杜す鵑の吐血」にたとえたものである。屋主人」「竹たノ里人」「香こ雲散人」などがある。子規の親友であった同郷の俳人、子規が母の実家である大原家に松山市立子規記念博物館には「子広く知られる別号には、「獺だい祭書うよけのさとびとううんさんじんちゅうまんかなえほととぎっさ「獺祭書屋主人」の「獺」とはカワウソのこと。カワウソは捕らえた魚を並べてから食べる習性があるといわれるが、その姿を「書物を並べ散らかした部屋の主人」と捉えたのだろう。また、「野球」の別号もある。子規は「やきゅう」ではなく、幼名の一つであった「升の」をもじった「の・ぼーる」と読ませていた。ベースボールを教育者・元野球選手の中馬庚が「野球」と訳したのは、子規が別号で野球を使い始めた数年後のことである。子規は明治初期、日本にベースボールが導入された当初からの熱心なぼるとえ一ひだ枝』を同郷の友人、新に海非風との選手であった。ポジションは主にキャッチャーであった。1890年代半ば、子規は「ストライカー」「ラナー」「ヂレクトボール」「フライボール」などを、「打者」「走者」「直球」「飛球」などに翻訳する案を示している。また、などの野球に関連する句を詠み、日本初の野球小説とされる『山やき吹の連作により執筆するなど、文学を通じて野球の普及に貢献した。なお、これらの活動が評価され、子規は2002(平成14)年に野球殿堂入りを果たしている。まぶいのみひふう東京都台東区の上野恩賜公園に、草野球が楽しめる野球場がある。愛称を「正岡子規記念球場」という、東京都が管理するレクリエーション施設である。子規は1880年代の後半、東大予備門(一高)・東京帝大に在学した頃、この球場がある上野恩賜公園内で野球を楽しみ、野球用語の日本語を考案した功績を称え、2006(平成18)年に名付けられたものである。松山市の伊予鉄道城南線「道後温泉」駅の駅前広場、足湯やからくり時計のある一角に、ユニフォーム姿の子規の像がある。子規がプレイヤーだった頃に撮影された写真がもとになったものだ。まり投げて見たき広場や春の草          4道後温泉そばにある子規の像。『山吹の一枝』に挿入された子規自身による挿絵。★*3 『子規全集別巻二 回想の子規』に収録。*4  詩人や作家、書家や画家が本名のほかにつける別名で、作品発表の署名や落らっかん款(書道や絵画などの作品が完成したことを示すために、作者が捺す印)    に使う名前のこと。東京上野恩賜公園にある正岡子規記念球場。子規記念博物館には42の雅号が展示されている。

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