ZENTOKU 2022年夏号
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がきは子規が始め、「はがき歌」と呼ばれるようになった。子規の残したはがき歌には、短歌にもカタカナが多用され、口語調の表現が用いられている。古語短歌が圧倒的に主流であった時代、斬新な試みであった。多士済々の文士人脈、日本中の門人との交流がつかたかし長な塚節、海軍軍人の秋あ山真之、軍医で同郷で俳人の河か東碧梧桐、柳原極堂、高た浜虚子、歌人の伊い藤左千夫、文豪の森も鷗外などとの交流を深めた。子規は文豪の夏目漱石のほか、漱石は一高在学以来の親友で、互松山市立子規記念博物館では、さまざまな切り口で企画展を開催するなど、子規の魅力をPRしている。日本郵便株式会社四国支社でも、毎年テーマを設定して松山市、松山市教育委員会が主催する「『はがき歌』全国コンテスト」に協賛している。2022年には28回目を迎える。子規は日々の出来事や用件を短歌にしてはがきに記し、交友があった人に送っていた。この短歌形式のはわひがしへきごとうかはまきょしきやまさねゆきりおうがいいに寄席が大好きなことをきっかけに交流を深め、やがて互いの心情を吐露し合うようになっていった。病魔に襲われた子規は1895(明治28)年、須磨保養院で保養したあと帰郷し、当時、愛媛県尋常中学校に教師として赴任していた漱石の「愚ぐ陀仏庵」と称する下宿に52日間寄宿している。だぶつあんまた子規は、俳句を始めた漱石の句の添削も行っている。子規は、その短い生涯の間、手紙やはがきを非常によく書いた。現存している最も古いとされる手紙は12歳の時のものである。子規は1892(明治25)年、日本新聞社の記者となり『日本』という新聞で俳句や短歌を募集したり、小説や寄稿文も書いたり、『小日本』という家庭向け新聞の編集長も務めていた。そのような交流などを通じ門人は全国に広がっていった。病で起き上がることもままならなくなってからも郵便で送られてきた門人たちの作品に、朱筆で丸や二重丸を入れて評価を示すほか、語句を手直しして送り返すなど、丁寧な仕事ぶりがうかがえる。ちなみに子規の墓碑銘については、友人に「墓はいらないが、もし墓に字を彫るなら、このようなことを書いてほしい」と内容を記した手紙を送っている。没年・享年に関しては「明治三十□年」「享年三十□」と記されている。きっと、明治40年代、していたのだろう。まさに子規は明治文学界を駆け抜けた夭折の俳人といえる存在であった。子規の添削の跡が残る夏目漱石への書簡。「郷土の偉人をより身近に感じていただきたい」と語る学芸員の川島佳弘さん(子規記念博物館)。子規が書いた初期の「はがき歌」。27回目となった「『はがき歌』コンテスト」の展示(子規記念博物館)子規記念博物館に復元されている「愚陀仏庵」。    ★ とうさちお       ★5★40歳までは生きられないことを実感子規の魅力を伝える松山市立子規記念博物館

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