ZENTOKU 2024年秋号
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赤貧の底でつかんだジャーナリストの職と来日の切符郵便局の歩みとともに……松江での「親交と交信」同年8月には松江にあった島根県尋★常中学校と師範学校に英語教師として赴任した。まさに波瀾万丈の幼少・壮年期を過ごしたジャーナリスト、作家の〝故郷を捨て、新たな故郷を探す〟来日だった。1890年8月30日、ハーンは米子から小蒸気船で中海を通って松江に着いた。街を流れる大橋川の船着場の対岸にある富田旅館に旅装を解く。ハーン、40歳。このとき、島根県尋常中学校の教頭であり、生涯の友として親交を深めた西田千太郎と初めて出会う。以後、433日と短い期間であったが松江で暮らし、教鞭を執り健筆を奮うとともに、国内外の多くの友人・知人と書簡を交わした。その時期はまさに、松江に郵便制度が敷かれる時期と重なっていた。島根県で郵便の取り扱いが始まったのは、ハーンが松江に赴く少し前の1872(明治5)年からである。松江郵便取扱所として開設され、県内の主な土地に1ヶ月あたり2〜4回の往復郵便が始まった。松江と同2歳の時にレフカダ島からアイル      3ランドに移ったハーンには、過酷な少年期が待ち受けていた。7歳の時に両親が離婚、その後イギリスとフランスでカトリックの教育を受けた。だが、戒律の厳しいカトリックの教育にハーンは強く反発した。既成の概念に囚われない生き方は、幼少期から根づいていたのかもしれない。 16歳の時だった。学校で遊んでいる最中に事故に遭い、左目を失明。その頃、父チャールズがマラリアに冒され他界する。17歳の時、父母に代わってハーンを養育していた大叔母が破産し、ハーンは全寮制のセント・カスバート・カレッジの中退を余儀なくされた。ハーンは19歳で単身アメリカに渡り、移民としての生活を送る。親戚を頼っての暮らしだが、大叔母が他界して親戚の縁も絶たれた。ハーンは週刊誌への投稿などで暮らす赤貧の生活を続けた。ところが、徐々にジャーナリストとして健筆ぶりが認められるようになり、アメリカ・シンシナティの新聞社、シンシナティ・エンクワイアラー社の正社員となった。 その後、ハーンはルイジアナ州ニューオーリンズやカリブ海のマルティニーク島へ移り住んだ。放浪の壮年期、何でも見てやろう、という思いとともに、郷に入れば郷に従うという思いもあったのだろう。ハーンは訪れた国や地域の文化の多様性に感化・魅了され、旺盛に取材し、執筆活動を続けた。 私生活では下宿の料理人アリシア・フォリー(通称:マティ)との結婚と離別、小さな食堂の開業とわずか20日間での閉店などがあり、仕事上ではデイリー・シティ・アイテム紙の記者、タイムズ=デモクラット社の文芸部長などとして筆を奮いながらの毎日。翻訳集や小説なども上梓した。 ニューオーリンズに住んでいた1884(明治17)年のこと、(ニューオーリンズ)産業綿花百年記念万国博覧会で日本文化と出会った。英訳『古事記』*2などの影響もあり来日を決意し、1890(明治23)年4月に横浜港に入り、初めて日本の土を踏んだ。アメリカの出版社、ハーバー社の通信員としてだった。 ところが7月にはハーバー社への不満が募り、絶縁状を送る。そして*2 明治時代の38年間日本に滞在したイギリスの日本研究家、B .H .チェンバレンによって1883年に訳された『古事記』。松江電信局と合併し、松江郵便電信局となった1889年頃の松江郵便局。八雲はこの局からの郵便物を首を長くして待っていたという。 ★

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