ZENTOKU 2024年秋号
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時期に郵便取扱所が設置されたのは、県内では今市、平田、浜田、安来などである。扱所は松江郵便局(二等)に改称された。翌年には松江に4ヶ所のポストが設置され、切手払下げ支店が開設された。松江において為替取扱や貯金取扱も始まり、県内各地に相次いで郵便局が置かれるようになっていった。松江郵便局はハーンが松江に赴く前年の1889(明治22)年に1875(明治8)年、松江郵便取松江電信局と合併し、松江郵便電信局となった。「ヘルン(ハーン)さんは数多くの書簡を遺していますが、松江からの書簡の多くはこの松江郵便電信局から送ったものだと思います」と小泉八雲記念館の学芸企画・ディレクター、小泉祥子さんは語る。なお、松江郵便電信局は1903   け う4年(明治36)年に電信局と分離されて松江郵便局となり、1987(昭和日に至る。 英語教師として教鞭を執るハーンは、松江を「神々の国の首都」と愛し、島根・山陰への旅を重ねた。1890年9月には出雲大社に行き、松江の寺町界隈を足繁く訪ね歩き、龍昌寺の石地蔵に魅了される。 10月には島根県教育会の総集会にて「教育の一要素としての想像力の価値」と題した講演を行った。その講演の通訳をしたのは、松江での最初の友、西田千太郎である。 若い頃、左目を失明したハーンはを詣で、島根半島の入江に佇む漁村も丁寧に訪ね歩いた。島根半島の東端にある美みほ保のせ関き*、3加かか賀の潜くど戸など神宿る地を興味深く訪ねている。 1891(明治24)年元旦、ハーンは日本で初めての正月を迎え、紋付、羽織、袴、白足袋の日本風の出立ちで挨拶回りに出掛けた。1月は風邪で学校を休む日も多かったが、そんな折、のちに妻となる松江の士族・小泉家の娘、セツが住み込みで働くようになった。 同年4月、松江大橋が開通した。松江で初めての洋式橋で、開通式は人出で市街は大賑わい。ハーンはその開通式の様子を借家の2階から眺めたという。5月には、松江城下近ちばたやくしくの普門院の住職から「小豆磨ぎ橋」と「飴を買う女」(大雄寺)の怪談話を聞く。ハーンの〝怪談をめぐる旅〟が始まった。そして6月には「神々の国の首都」の原稿を完成させ、アメリカの出版社に送った。その原稿はのちに『知られぬ日本の面影』に収録された。同月下旬、ハーンは現在の小泉八雲旧居(松江市北堀町)に移った。7月から8月には2週間ほど西田と旅に出て、続いてセツと2週間ほど二人で伯ほき耆方面へ旅に出ている。日本語が不十分なハーンと外国語が十分には理解できないセツ。2人には言葉だけでは推し量れない意思の疎通小泉八雲記念館Lafcadio Hearn Memorial Museum「残った手紙の数の多さや、日本語の住所ラベルを相手方に送るなどの気遣いからも“手紙好き”だった一面がうかがえます」(小泉八雲記念館・小泉祥子さん)。*3 三方を海に囲まれ「聖なる岬」とも呼ばれる美保関。日本海の良漁場として知られ、また江戸時代からは北前船の寄港地として栄えた。   美保神社(えびす様の総本宮)に祀られているコトシロヌシノカミは、『古事記』や『日本書紀』に登場する。 小泉八雲が1891年6月から11月まで暮らしていた旧居。小泉八雲記念館に隣接。八雲は、純和風の庭をこよなく愛した。旧居の建物は修復はされているものの当時の面影をそのまま伝えている。八雲が愛用した机(レプリカ)。左目を失った八雲のため、机面が高く設計されている。八雲は美保関を三度も訪れ、紀行文「美保関にて」を発表した。美保関には、八雲の家族3人のレリーフが建つ(写真左)。このレリーフは、1896(明治29)年に神戸で撮影された写真をもとに作られた。同年7月に、家族3人で美保関を訪れている。美保神社から仏谷寺に至る青石畳は江戸時代の参拝道の遺構。石畳の両側には古い街並みが残る(写真右)。11月には目の薬師で有名な一い畑薬師62)年に松江中央郵便局となって今国指定史蹟 小泉八雲旧居

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