ZENTOKU 2024年秋号
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まんじこ 55年越しの同棲を経て実る国境を越えた恋があったようだ。 そして10月、ハーンは熊本の高等中学校への転任を決意。11月15日に熊本に向けて出発した。 松江での滞在は443日と決して長くはない。だが、ハーンは自身にも松江の人々にも多くの記録を残し、記憶に残る存在となった。 熊本への出発当日の午前8時、自宅前には生徒や教員など約200人が集まり、盛大に見送られたという。蒸気船が静かに宍し道湖を渡った。 松江をあとにしたハーンは、熊本第五高等中学校、神戸クロニクル社*4などの勤務を経て、1896(明治師として英文学の講義を行うようになる。現在の東京都新宿区富久町に住む。 神戸時代にはセツと正式に結婚し、「小泉八雲」として日本に帰化した。「八雲」とは日本最古の和歌とされ、「八雲立つ出雲八重垣妻つご籠みに八重垣作るその八重垣を」と『古事記』にあるように、出雲国を象徴する言葉である。 帝大の講師生活を送っていたハーンだが、1903年には帝大を解雇され、後任を夏目漱石に譲り、さらに早稲田大学で教鞭を執った。そのさなかの9月26日、転居先の新宿区西大久保で心臓発作を起こし、54年の波瀾万丈に満ちた生涯を閉じた。1989(平成元)年10月、八雲の故郷レフカダ市と終焉の地新宿区は友好都市となっている。日本でのハーンは三男一女に恵まれ、著作家としては『知られぬ日本の面影』『怪談』など随筆・紀行文・再話文学のジャンルを中心に生涯で約30の著作を発表した。特に『怪談』をはじめとする再話文学は、今もなお人々を魅了してやまない。八雲の書簡と愛用のペンやペン先入れなど(左)。右は外国からの返送の際に先方が宛名を間違わないように同封した住所ラベル。*4 1891年10月、イギリス人ロバート・ヤングが創刊した日刊英字新聞。神戸で初めてロイター通信と契約し、1899年には『ヒョーゴ・ニュース』を買収、『ヒョーゴ・イブニング・ニュース』を発行した。小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の代表作『怪談(Kwaidan)』の初版本。 長男一雄から八雲にあてた手紙。八雲は子どもからの手紙を引き出しに大切に保管していた。八雲・終焉の地である大久保(新宿区)にある記念公園。八雲が焼津から東京で留守番をするセツに宛てたカタカナ書の手紙。       松江の人たちは親しみを込め、八雲のことを “ヘルン”さんと呼んでいる。1890年に日本に着いた八雲は、すぐに日本に馴染み始め、1891年12月には島根県に雇われるにあたり、条約書に「ラフカヂオ・ヘルン」と記載されたことから「へるん」「遍留ん」という自分用の判子をつくっている。29)年9月から帝国大学文科大学講小泉八雲の判子

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