ZENTOKU 2025年春号
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寺田寅彦*2を師事し実験物理学を志す随筆・映像の才も雪のように結晶する才能を育んだ幼少期からの下宿生活いしょうじまち大だ聖寺町(現加賀市)三森家に預けらちもんじょうらだとらひこ四しう校)に入学した。在学中に哲学者いこいじやい3         石川県立小松中学校(現県立小松高校)に通い、寄宿舎生活を送る。19歳の時に金沢の第だし四高等学校(旧制田邊元はめの『最近の自然科学』を読み、理論物理学に魅せられた。1922(大正11)年、東京帝国大学(東大)理学部物理学科に入学。そのとき一家で上京し、下谷数寄屋町(現台東区上野)に住むようになった。1925(大正14)年、25歳で東大を卒業する。在学中から物理学者であり随筆家、俳人の寺て田寅彦に師事し、理化学研究所寺田寅彦研究室の助手となる。中谷は寺田の指導を受けて実験物理学に転向。寺田との親交はその後も続き、理化学研究所で電気火花などの研究に勤しんだ。1927(昭和2)年のことだ。10月、北海道帝国大学(北大)に新設される理学部の教授候補になり、金沢生まれの国文学者藤岡作太郎の長女綾子と結婚した。1928(昭和3)年〜1929(昭和4)年、中谷は文部省在外研究員として、単身ヨーロッパに留学し、研究を重ねた。ただ、留学中に綾子は病没してしまう(その後31歳で寺垣静子と再婚)。中谷は、留学の間に論文を完成させ、ベルリンからパリへ。のちに第との親交を深め、一緒にヨーロッパ各地を旅行して回った。アメリカ経由で帰国したのは1930(昭和5)年のこと。同年、北大理学部の助教授になり、翌年には京都帝国大学から理学博士の学位を得ている。学問的地位を得た中谷は、北大理学部教授となった1932(昭和7)年頃から雪の結晶の研究を始める。そして1936(昭和11)年、北大に完成した常時低温研究室(低温科学研究所の前身)にて雪の結晶の人工製作に世界で初めて成功した。神でも天でもない人間が創造した雪が、「人工雪」という言葉と共に世界で初めて北の大地に舞った。雪の結晶の人工製作を成し遂げた中谷は、36歳の若さにして病魔に襲われ、1936年末、家族と伊豆の伊東で療養生活を送るようになった。肝臓内の胆管に寄生する吸虫に侵される肝臓ジストマだった。中谷宇吉郎は1900(明治33)年7月4日、石川県加賀温泉郷の一つ片山津温泉に生まれた。両親は教育熱心で、6歳で母てるの実家のあるれ京けき逵幼稚園に通う。その後、同町に住む九谷焼の名工浅井一いう毫の家に預けられ、同町立錦き城尋常高等小学校に通った。8歳の時、旧大聖寺藩主の家令(執事)で親類の松見助五郎の家に預け代えられ、1913(大正2)年、17代東大総長となる物理学者茅か誠せじ司現在の錦城小学校(加賀市大聖寺)。中谷は幼少期から親元を離れ、加賀地域で教育が充実していたとされる大聖寺町で下宿生活を送った。中谷が通った旧制四校(金沢市)。中谷は理論物理学に興味を持つ。卒業後、東大理学部に進み、理化学研究所から北大理学部にて実験研究を重ね、教鞭を執った。*2 1878 - 1935年。物理学者、随筆家、俳人。熊本の旧制五高時代、物理学者田丸卓郎、夏目漱石と出会い、この2人を師と仰ぎ、科学と文学を志す。理化学研究所での実験物理学の研究と並行し、吉村冬彦の名で随筆などを著わす。「天災は忘れた頃にやってくる」は同氏の言葉だとされる。なお、茅によると、中谷と最初に出会ったとき、中谷は寺田研究室の実験で額に傷を負い、白鉢巻で発表を行う姿であったという。中谷宇吉郎の生家は片山津温泉にあった呉服雑貨店・丸中屋。現在は生家跡地が整備され「雪は天から送られた手紙である」と彫った石碑が建つ。

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