ZENTOKU 2025年春号
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サイエンス・コミュニケーターのさ魁きがけにうじょうゅうべつ忠ち別川で積雪水・洪水調査を行い、療養から回復する過程で、中谷は随筆家として健筆をふるうようになる。1938(昭和13)年には最初の随筆集『冬の華』を出版、続けて『雪』も出版した。 さらに1939(昭和14)年には東宝文化映画『雪の結晶(SnowCrystals)』ワシントンで開催された国際雪委員会の大会で上映された。この映画は日本の科学映画の嚆こし矢ともいえる作品であり、中谷がのちに映像の分野も手がけるきっかけともなった。なお同年、札幌市内に自ら設計したペチカ暖房の家に一家揃って戻り、随筆集『雷』を上梓している。中谷は寒気によって地中の水分が凍結し地面が隆起する「凍と上」の発掘調査を道内各地で進めた。満州にも出向き、雷や着氷の観測も飽くなき探究心を持って進めている。そして1941(昭和16)年、「雪に関する研究」で帝国学士院賞を受賞。また同年、『雷の話』を出版した。1943(昭和18)年には北大常時低温研究室が礎となって誕生した「低温科学研究所」の主任研究員に就任した。その頃、北海道ニセコアンヌプリの山頂部に着氷観測所が完成し、中谷は着氷と共に樹氷の研究にも勤しむ。この着氷観測所は終戦に伴い解体となったが、中谷は着氷が完成し、観測所を基盤に1946(昭和21)年、㈶農業物理研究所を創始した。一方、この年、長男敬けう宇が病没する悲しみの中、大雪山系から流れる1948(昭和23)年には資源委員会の委員に就任している。学問的地位も社会的地位も確固たるものにした中谷が記録映画に没頭したのも、この頃からだ。1949(昭和24)年、映画『霜の花』が、人文や自然科学などで業績を上げた個人や団体を顕彰する朝日賞を受賞し、『雪の研究』を出版した。なお、翌年、低温科学研究所の兼任教授を辞めて理学部専任となり、中谷研究室という映像プロダクションを創立している。中谷研究室は岩波映画製作所の前身であり、同製作所の発足当時、中谷はその顧問となっている。1952(昭和27)年、中谷は雪氷永久凍土研究所(現陸軍寒地理工学研究所)に招かれ、2年ほどアメリカで氷の研究に従事する。この時期、米軍資金による研究が〝軍事研究に繋がりかねない〟との批判を受けた。★★★うい4★         雪の科学館に展示されている「愛用の墨絵道具」。研究の傍ら墨絵も楽しんだ。「雪は天から送られた手紙である」とともに、雪の結晶が描かれた中谷直筆の掛け軸。『雪』に収められた「第1 雪と人生」の草稿。修正の指示・アドバイスは岩波書店会長を務めた小林勇によるもの。中谷は恩師寺田寅彦からの仕事ぶりや近況を伝える葉書(左)や理研寺田寅彦研究室のメンバーからの近況報告の葉書(右)など、多くの書簡を交わしている。「雪の科学館では中谷宇吉郎の偉業の足跡をたどるとともに、若手の科学研究を顕彰する制度も設けています。人工雪の生成を実験できる装置なども置き、県内外の多くの方にお越しいただいています」(中谷宇吉郎雪の科学館顧問、神田健三さん)。なお、雪の科学館は能登地震の影響による修繕工事のため、2025年4月から1年間休館。

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