だが、中谷は米空軍研究所の委託研究費を活用し、雪の結晶による実験的研究を重ねた。中谷は人集め・資金集めで独特の才能を発揮したようだ。『中谷宇吉郎 人の役に立つ研究をせよ』(杉山慈郎著、ミネルヴァ書房)で、著者の杉山は弟子や友人たちの話から中谷の人当たり・面倒見のよさを紹介している。資金集めでは、中谷が培った友人との交流はもちろん政財界に繫がる医学者との交流も重ね、人脈を活かした。また、「実績をアピールするのにも、臆することがなかった」とする。とかく自分をアピールすることが苦手だった日本人の中で、中谷は異彩を放っていた。1957(昭和32)年、再びアメリカに向かい、国際地球観測年の遠征隊に参加してグリーンランドの調査にも赴いた。以後、グリーンランドへはたびたび出向くことになる。1950年代、中谷は気象学・自然科学の権威であるとともに、ジャーナリストとしての一面ものぞかせるようになった。南極観測隊派遣事業に助言を行ったり、『文化の責任者』を出版。『文藝春秋』に寄稿した「北海道開発に消えた八百億円」「ジャーナリズムと科学」などが収録されている。一方で、幼い頃からの絵筆の才も活かし、編集者、随筆家、画家であり岩波書店の会長も務めた小林勇と絵の二人展を開いている。チームを組み共同で研究した科学の成果を広く伝える、まさにサイエンス・コミュニケーターの魁でもあった。 文理多彩な才能を発揮し、親交の厚かった知人・友人に多くの書簡を残した中谷宇吉郎。その最期は還暦を過ぎた頃、突然訪れた。1960(昭和35)年に還暦を迎えた中谷は、医師で日本医師会・世界医師会の会長を歴任する武見太郎の勧めで東大病院に入院、前立腺がんの手術を受けた。その後1962(昭和37)年、再び東大病院に入院、骨髄炎のため帰らぬ人となった。墓地は加賀市中島町にあり、六⾓の台座の各面にはそれぞれ異なる雪の結晶形が刻まれ、ふるさとの名峰⽩山を望む。その傍らには、盟友茅誠司の墓碑銘。誰よりも「天からの手紙」を愛してやまぬ生涯だった。★5 中谷宇吉郎雪の科学館入り口(加賀市)。六⾓の台座の各⾯に雪の結晶形が刻まれた中谷の墓(加賀市中島町)。4月11日が中谷の命日。中谷宇吉郎雪の科学館(写真4点)では、世界で初めて中谷宇吉郎が人工雪の製作に成功した装置(右、レプリカ)をはじめ、人工雪の実験装置や愛用のカメラなど、数多くの展示品で偉業を紹介している。写真の背景(写真提供:seaonweb/iStock)は中谷が実験研究を重ね、教鞭を執った北海道大学理学部。なお当時の北大理学部は現在、北大総合博物館として利用されている(2025年4月から1年間休館)。
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